三谷商会の歴史と変遷 (江戸から平成へ)
庚申山広徳寺(滋賀県甲賀市水口町山上)は延暦2年(783)最澄によって開かれた天台宗寺院である以外に、もうひとつ真鍮(黄銅)の神という面を持つ。
伝承によると文禄2年(1593)山麓の百姓の藤左衛門が断食祈願を行ったところ、17日目の満願の夜に童子が夢に現れ、「銅に釷丹(亜鉛)を混ぜて吹き流せば黄金の金が得られる」という教えを授かったと伝えられている。
広徳寺旧蔵資料『真鍮吹始由来』によれば、京都で真鍮が始まったのはこの霊夢の6年後、慶長4年(1599)で真鍮吹業で成功を収めた藤左衛門は元和元年(1615)に広徳寺の本堂を再建させて以来、今日に至るまで真鍮始祖として、同業組合の性格を後に帯びる庚申講を含む信仰を集めることとなった。そして、藤左衛門以後、京都の真鍮吹業は安永9年(1780)に江戸と大阪でも許可されるまで日本国内で独占的地位を占めるようになる。
宝暦4年(1754)の『新益京羽二重織留』によれば39軒の吹屋が京都にあったという。伸銅の産地と言えば京都の権威が強く、槌でたたいて板を延ばしたり、銅と亜鉛を配合して真鍮の治あわせをする技術も京都が発祥であった。
同様に前述のように水車動力の利用も鴨川上流域の白川や鞍馬で起こったという。京都市中に散在していた地金商、地金吹職人、延板職人が鴨川上流域で水車伸銅を本格的に始めたのは明治前期のこと。
今日の産業用語の「伸銅」とは銅もしくは銅合金の一次加工をさすが元来の伸銅は、鍋・薬缶・簪など銅製の日用品を作る銅細工業の一工程に過ぎず、中間材料の板・線は職人が地金を金槌で叩いて作っていた。
そして明治前期に近代工場が登場し、伸銅品が量産されるようになり、精錬に付随したかたちから分業し「伸銅」という用語が造られたのは明治20年代末であった。「伸銅」という用語は水車による賃加工には使われず、地金から板や線などを総合的に生産する機械制近代工場に限って使われるようになる。
そのころ、水車利用のため鴨川上流の郊外に進出した伸銅業が市中へ回帰するきっかけになったのが明治23年(1890)、大津~京都間をむすび鴨川に至る琵琶湖疎水の完成だった。この疎水事業の最大の経済効果は電力供給であり、その翌年には国内初の水力発電所・蹴上発電所による送電が開始され、市内には街灯が点き、路面電車が行き交い市民生活は大きな変化点に至った。
伸銅業も新時代を迎える。明治25年(1892)の俵黄銅製造所(昭和7年三谷伸銅が買収)による電動機による黄銅板の圧延の開始に次いで、ここに弊社のルーツ・三谷伸銅の元を築いた三谷卯三郎も聖護院蓮華蔵町に工場を設立。京都岡崎の疎水脇の冷泉通は近代伸銅工場がずらりと並ぶ「伸銅通」へと変容したが、この中で著しい成長を遂げたのが現在も続く京都の名門・三谷伸銅を創業した三谷卯三郎の伸銅工場であった。
三谷伸銅所蔵の『三谷家経歴書』によると、京都の山城屋三谷家は安静年間(1772~80)に2代目善六が加賀国江沼郡の三谷川支流の日谷村(現・石川県加賀市日谷町)より上京し薪炭商を営み、4代目与兵衛が地金金物商を起業したものの慶応元年(1865)家業発展の途で、まだ10歳の長男卯三郎を残し病死する。再興を託された卯三郎は、大阪の地銅金物商・米浪商店のもとで10年間の丁稚奉公の修行に出る。
21歳で京都に戻った卯三郎は白川と八瀬に水車工場を設け、伸銅業に乗り出す。これが後に設立する電力利用の上京工場を特徴づけたようである。
その証拠に、写真に残る昭和初期の概観には、近代工場には珍しく水車が付属しているのが写っている。
主動力が電力に移っても、焼鈍炉への送風などの補完的な役割を果たしていたと見られる。疎水が生む電力と水力を両用したユニークな工場は、水車利用の経験のないほかの工場には真似できなかったようである。さらに数年後、上京工場の数十メートル上流に水力発電所が建設されていることからも、この場所が水車を設置する好立地であったことを示している。水車伸銅で養った卯三郎の眼力が、新工場の土地選定の際にも冴えていたといえよう。
三谷伸銅は、上京工場を設立した後、鞍馬と宇治にも水車工場を増やし、上京工場で生産する材料を伸線・伸板加工する一貫生産体制を充実させ、その優位性を揺るぎないものにした。 当初は30人程度だった従業員数は、第一次世界大戦による好景気を受けて大正9年(1920)には他社の群を抜く240人まで成長した。
それら郊外の水車工場は、三谷伸銅の戦後の社内報によると、八瀬工場が昭和10年、北白川工場が昭和15年まで稼動していたという。その息の長さは、電力時代の到来で大正年間には殆ど姿を消した他所の水車工場群とは対照的だった。
生産拠点が6つに増えた昭和7年(1932)、卯三郎は78歳で死去した。丁稚奉公から数えて67年。 幼少からの節倹を守って粗衣をまとっての晩年であったという。
卯三郎の死に遡ること15年、大正13年(1924)、卯三郎より家業を引き継いだ長男与一郎は三谷伸銅の社長として関西での磐石な基盤を擁しつつ、日本の政治・経済・そして伸銅品取引の中心地として関東大震災からの急速な復興が求められていた東京への進出を図る。
後の三谷商会の前身となる三谷伸銅・東京支店を神田岩本町に開設、三谷伸銅のみならず古河電工、神戸製鋼など広く伸銅品の卸売業を開始した。しかし、前大戦の戦時国家経済統制の中一時業務を停止したがその情熱は消えることは無かった。
昭和23年(1948)戦火を跨ぎ、焦土と化した東京に再び、戦後復興への強い希望と伸銅品産業の発展を誓い東京に戻った常夫は、回帰の地、神田に現在の三谷商会を興す。しかし、その代償として、会社経理統制令のもと三谷伸銅の代表を辞さねばならなかった。
三谷商会は卯三郎の京都・白川水車による伸銅業の始まりから130年を超える歴史を綴りながら21世紀の今日、伸銅のみならず広く非鉄金属に関わり発展を遂げてきた。
日本全体が震災復興に全力を向けようとする現在、過去、何度も復興の中でその存在を脱皮・再生してきた三谷商会の、再びその歴史に新たなページを創生すべく、私たちは時代の要求に沿って邁進致しております。